●左より「雁塔聖教序」、「房玄齢碑」、「孟法師碑」、「伊闕仏龕碑」
もう一つ、僧懐仁(生卒年不詳)が24年の歳月をかけて王羲之の筆跡から約1900字を集めて作ったのが「集王聖教序」もあります。現存する王羲之書跡の模本類と一致する文字が多く、太宗が最も愛した「蘭亭序」からの引用も多く見られます。部首を組み合わせて作った字や、唐代皇帝の諱を欠画するなどの改変も見られますが、総じて当時の規範化された王羲之書風をよく示しています。
『旧唐書』★遂良伝によると、永徽元年(650)に河南都公に進み、永徽三年正月に吏部尚書、同中書門下三品となり、監修国史(修国史)を加えられ、この時から永徽六年九月に尚書右僕射、同中書門下三品をから潭州都督に左遷されるまで監修国史を兼ねていました。河南郡公に封ぜられたことから、★河南とも呼ばれました。書と鑑識を能くし、魏徴の推挙により、唐太宗(皇帝)の書道顧問として出仕、後に太宗からの信頼を得て中書令となりました。
欧陽詢、虞世南と並んで★遂良は「初唐の三大家」の一人とされましたが、唐太宗の庇護のもと欧、虞は職務を全うしました。約40年遅れた★遂良は649年(54歳)に唐太宗が崩御、翌年同州に左遷されました。そして武照(後の則天武后)を皇后に立てることに反対したことで彼女に恨まれ、死刑は免れたものの南方の潭州都督、桂州都督と左遷され、不遇のうちに愛州(今のベトナム中部、タインホア省)で没しました。
★遂良は王羲之の真書鑑定職務についていたことから羲法をよく学んだとされ、その書として認められるものに、河南省洛陽にある貞観15年(642)、★遂良46歳時の楷書の「伊闕仏龕碑」、貞観16年(643年)で、★遂良が47歳の「孟法師(542〜638)碑」には隷書の運筆法が見られます。★遂良晩年期の55歳頃の楷書である房玄齢(578〜648)碑、前述の「雁塔聖教序」では躍動的で流麗な書風に一変、独自の書風「★法」を完成させました。